医療系の大学や学部受験する場合には、面接試験が必要となっているところも多いかと思います。
特に医学部を受験する場合には、ほとんど大学で面接試験が必須となっていますね。
ここではそのような面接試験で高い頻度で問われるであろう。安楽死のテーマについて取り上げたいと思います。
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安楽死の定義
安楽死(あんらくし、英語:euthanasia)とは、人または動物に苦痛を与えずに死に至らせることである。
一般的に終末期患者に対する医療上の処遇を意味して表現されるが、本質的には、死刑の執行、動物の殺処分など、対象や目的は限定されない。
安楽死に至る方法として、積極的安楽死(英語:positive euthanasia , active euthanasia)と、消極的安楽死(英語:negative euthanasia , passive euthanasia)の二種類がある。
安楽死の中には積極的安楽死と消極的安楽死が提唱されています。
消極的安楽死とは、積極的な治療を行わない、ということですね。
末期がんの患者さんで治癒の見込みがない場合に、積極的な抗がん剤は行わない一方で、痛みを取るための治療(緩和ケア)や、点滴などの処置は行うことを意味します。
これは実際の医療現場でも広く認識されている考え方です。
消極的安楽死とは、予防・救命・回復・維持のための治療を開始しない、または、開始しても後に中止することによって、人や動物を死に至らせる行為である。
世界の諸国では、終末期の患者には延命可能性が全くないかまたは長くても月単位なので、終末期の患者に対する消極的安楽死は広く普及している。
一方で安楽死と聞いて一般的に思い浮かべるのは、積極的安楽死になりますでしょうか。
積極的安楽死とは、致死性の薬物の服用または投与により、死に至らせる行為である。
医療上の積極的安楽死の場合は患者本人の自発的意思に基づいて、自ら致死性の薬物を服用して死に至る行為、または、要求に応じて、患者本人の自発的意思(意思表示能力を喪失する以前の自筆署名文書による事前意思表示も含む)に基づいて、他人(一般的に医師)が患者の延命治療を止めることである。
これは簡単に言えば、「死にたい」と思った時に、医師などの適正な判断のもとに許容される場合、自ら死に至るような薬を服用したり点滴したりして、死に至らしめることです。
医療を行う上で倫理的に議論が行われるのは、主に後者の積極的安楽死になるかと思います。
日本では積極的安楽死に関する法整備が不十分である
このような大きなテーマになっている積極的安楽死でありますが、日本では十分な法整備がなされていません。
ですから日本の病院で働いている医師が、積極的安楽死に関して何かしらの行動を起こす事はありません。
法整備がなされてない以上、何かしらの行動取るという事はリスクでしかないのです。
したがって、末期がんの患者さんに対して医者が積極的安楽死の選択肢を提示することもありません。
末期がんの患者に対して、「心臓マッサージはしなくて良いですか?」と消極的安楽死の選択肢を提示することは一般的であるわけです。そして大抵の患者さんや家族は良いですと返答されます。
しかし「この薬を使えば早く死ねますよ」などといった選択肢を提示することは絶対にありません。
川崎協同病院事件
積極的安楽死の事件を語る上で欠かせないのが、川崎協同病院事件です。
川崎協同病院事件(かわさききょうどうびょういんじけん)とは、同病院で医師が患者の気管内チューブを抜管後に筋弛緩剤を投与して死亡させたとして殺人罪に問われた事件である。
これは気管支喘息発作から低酸素脳症、意識不明、人工呼吸管理になった患者さんに対して、医師が積極的に死期を早めるような処置をした事例です。
最終的に医師が良かれと思った行った医療行為にも関わらず、最高裁で殺人罪の判決が確定しています。
この先生の行為自体は決して100%責められるべきものではありませんし、今後議論されていくべきものです。
しかし、積極的安楽死に関して法整備がなされていない当時・現在の医療においては行なってはいけないものなのでしょう。
日本においては積極的安楽死を取り巻く議論は、その当時から明確な進歩があるとは言い難い状況です。
したがって安楽死に関して何かしら特別な対応を取るという事は、病院の中ではリスクでしかないわけです。
面接試験では、無難な回答をすべきである
以上が安楽死に関する現状でした。
さて、そのような現状を考慮して、面接官がどのような回答を受験生に望んでいるかということです。
消極的安楽死に関しては、許容されることが一般的です。
今の日本においては、積極的な安楽死を行うことは殺人罪に問われても全くおかしくない状況です。
ですから面接会場で安楽死に関して問われた場合は、当たり障りのない無難な回答すべきです。
そしてどちらかというと積極的安楽死を否定するようなスタンスの方が、いろいろと突っ込まれることはないでしょう。
諸外国においては、完治の見込みのない、苦痛を伴って生きている患者さんにおいて積極的安楽死を一部許容する場合が出てきていますが、極めて特殊な例と考えた方がよさそうです。
ゆえに、模範解答としては、下記のようなものになるでしょうか。
模範解答1
「諸外国においては、積極的安楽死がごく一部の国で認められているところもあるが、日本においてはまだ法整備が十分にない。将来医師になる人間として、患者さんの死期を早めて良いのか葛藤がある。したがって慎重な議論が待たれる」
模範解答2
「私の祖母は80歳で亡くなりましたが、その最後は苦しそうでした。ただしいろいろな治療を受けながら、家族に支えられながら人生を全うした祖母を誇りに思います。
自らの手で死の瞬間を決める安楽死のやり方が、もっと広まるべきかということに関しては、疑問があります。」
面接官である医師や看護師は、上にも書いたように普段は積極的安楽死について葛藤している事はありません。
というよりも現行の法制度の元では積極的安楽死は容認されておらず、葛藤する必要がないからです。
一般市民が「銀行強盗をするかどうか迷う」ことがないのと同様に、「積極的安楽死をすべきかどうか迷う」のは、真っ当な医療者が行うことではない、というのが今の日本の法制度です。
したがって1や2の回答であれば、間違った思想を持っているとは認識されずそれ以上突っ込まれることはないでしょう。
特に模範解答2のような個人の体験をベースにした回答に関しては、面接官も正面から否定することは難しいでしょうから、答えに窮する質問が帰ってくる可能性は低そうです。
上記のような回答をすれば、少なくとも一発不合格になるようなことはないと断言できます。
積極的安楽死について。死期を自ら決定することの難しさ
がん患者さんが最後になくなるときには多大な苦痛を伴いますし、もちろん家族の負担もあります。
ですから私が医師になって最初のことろは、どちらかと言うと安楽死に関しては積極的な立場だと感じていました。
ただし医者も何年かやるうちに、考えが変わってきたように思います。
自分の人生の最期を、自らの手で決めるというのは、患者さんはもちろん、医療者側、家族にとっても非常に勇気のいることです。
遠距離恋愛を例に
遠距離恋愛を例にあげてみると、デートの後の男女の別れと言うのは、自分たちの意思以外の部分で決定される部分が多いかと思います。
たとえば予約している飛行機や新幹線の時間をリミットにして、男女は泣く泣く離れなければならない場合が多いでしょう。
別れる時は辛いのですが、別れの時間は交通機関の時間という第3者の要因によって決められているわけですから、あきらめが付くというか、どうしようにもやりようがありません。
これがもし飛行機の時間や新幹線の時間のような前置きなしに、自らの意思でもってして別れを告げる必要があるとしたら、非常に辛いことが想像されます。
愛し合っているカップルであれば、時間きっかりに別れることなんてできないでしょうし、翌朝まで一緒に過ごしてしまうかもしれません。
自らの死期を自らの意思で決定するのは、精神的にかなり達観していないとできない選択ではないかと思います。
自然の流れの中で死を迎えることの必要性も
もちろん積極的安楽死は、自らの人生を決定する1つの選択肢としてきちんと法整備される必要があるかと思います。
死期の迫った患者さんの精神的、肉体的苦痛は、もしかしたら私たちが想像する以上にはるかにつらいものかもしれません。
こればかりは体験したことのある本人でなければ 分かりませんが、それが他者に確実に伝達されるわけではありません。
仮に積極的安楽死が許容されるように法整備がなされたとして、そのような選択をする患者さんは、想像するよりも少ないのではないかなと思います。
患者さんやそのご家族をみていると、自然の流れの中で死を迎える、というのが必要な気がしてくるのです。
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